まつくす のバックアップ(No.1)
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- 1 (2021-02-15 (月) 02:21:05)
- 2 (2021-02-16 (火) 20:12:53)
まつくすは、相模国足柄上郡沼田村の猟師である。
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生涯
元亀2年8月25日、沼田村猟師弥彦とよしの三女として生まれる。兄に弥一、姉りくは夭折、妹にゆりがいる。
幼い頃から弥彦に従い、山野を歩く活発な少女であり、目が非常に良く、獲物を素早く見つけることから、弥彦か猟師としては弥一に勝るとしてまつくすを鍛え上げ、田畑は弥一に任せた。5歳で罠で猪を仕留めたのが最初の獲物と言うが、狙っていたのは兎であり、まつくす自身は「運が悪ければ返り討たれていたかもしれぬ」と誇ることは無い。10歳くらいから短弓を使って狩りをしており、目の良さと野性的な勘で多くの獣を仕留める。しかし、弓の威力が乏しく、矢の刺さった猪に追われるなど危険にさらされたこともあったことから、弥彦の教えでトリカブトの毒を矢じりに塗るようになったという。
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13歳の時に、流行り病に罹った弥一に代わって、16歳と偽って軍役に応じ、「鬼孫太郎」と恐れられた松田肥後守の麾下となり、野州沼尻に行く。ここで佐竹・宇都宮勢の鉄砲の雨に苦しめられるが、武器としての鉄砲の魅力に取りつかれて、夜に単身宇都宮の陣に忍び込み、鉄砲2丁を略奪した。しかし、弾が無ければ全く意味が無いことに気付き、翌夜に鉄砲1丁と弾薬を再び略奪し、略奪に気付いた宇都宮勢に鉄砲で応戦し、甲冑武者2人を打倒したことから、松田肥後守に、「俵藤太は龍女の力を得て将門公を討ったという。龍女とはまさにお主のことだな」と称賛された。
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天正18年1月15日の北条氏直の動員に応じ、松田肥後守麾下として鉄砲を持って参陣。三の丸大手で一柳伊豆守直末の率いる隊を迎え撃ち、渡辺勘兵衛を撃ちすくめたが、松田右兵衛太夫康長の命で松田肥後守とともに落ち延び、更に、松田肥後守の勧めで沼田村へ戻る。この際、沼田城の北条の兵に小田原城へ籠城するように伝えている。
その後、久野諏訪原に駿河左大将家康の軍勢が姿を見せた時は、近隣の百姓を指揮して沼田城に籠城するが、駿河左大将が無視したため、戦いにならなかった。この時、駿河左大将について、「なかなかの大人物」と評価している。
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この時、胡蝶と桔梗、三左衛門が同行している。
肥後守隊は三の丸大手に布陣し、一柳直末隊と交戦。優れた狙撃で一柳隊の兵を次々射殺し、渡辺勘兵衛を撃ちすくめたが、西の丸を徳川勢に攻め落とされ、岱﨑丸も落ちた山中城は落城が決定的であり、城将の松田右兵衛太夫康長が北条左衛門太夫氏勝を小田原に逃がすべく、松田肥後守らに護身を頼むと、まつくすらもこれに従って小田原へ落ちるが、松田肥後守から北条氏の命運が尽き、これ以上同道する必要は無いと諭され、宮城野城と沼田城の守備兵に、小田原城への退却を伝えて沼田へ落ち延びるように命じられ、これに従う。
しかし、沼田や近郊の三竹山、岩原、北ノ窪などでは、上方勢の乱暴狼藉を恐れるあまり、空になった沼田城へ百姓らが逃げ込む騒ぎになり、まつくすは村々の長や西念寺、そして知恵者で知られたお蓮の考えで、一旦近隣諸村の住民を集めて沼田城に籠城し、守りを固める。しかし、宮城野城から碓井峠を降りてきた駿河左大将徳川家康は、久野諏訪原から沼田城を眺めて「戦乱に城に百姓が籠るなど珍しくもなし、小田原が落ちれば自ずと開く、手出し無用」と無視している。
その後、暫くは何事もなく過ぎたが、5月20日に堀久太郎秀治が狩野街道沿いに乱暴狼藉を行い、三竹山村を荒らすと、三竹山、岩原、北ノ窪等の村々の住人が沼田城に籠城し、堀勢と対峙した。山中城でも功績に恵まれなかった久太郎は、沼田城を攻め落として功を得ようとして、叔父の堀監物直政の制止を聞かずに沼田城へ攻めかかるが、まつくす、胡蝶、桔梗の銃撃と、さわらびの仕掛けた巧妙な罠に翻弄され、瞬く間に兵三十ばかりを失う。焦った久太郎は一旦兵を引き、再編して叔父の監物を小口へ、自らは山の神方面から襲い掛かり、武者だまりを落とすが、逆に北矢倉からまつくすらに掃射され、結局退却した。
沼田城の攻防を聞いた羽柴北ノ庄侍従秀政は慌てて沼田に来たが、堀勢は3度目の攻城戦に入っていた。まつくすら8人の乙女の奮戦で、久太郎も監物も攻めあぐねていたが、北ノ庄侍従は戦況を聞いて撤兵を命じ、混乱する手勢をまとめようとして前線に出たところを、まつくすに狙撃され重傷を負って、海蔵寺の陣所まで運ばれ、5月27日に「病死」した。